好きになるというのは、これほど止めようがないものはありません。地球に自転を止めろというようなものです。
まして、遊びで終わらせておくべきカラオケ嬢を本気で好きになってしまった。これは人生の破滅の門はすでに開いてしまったと言えます。
そうなってしまった場合に起こるであろうことをまとめていきたいと思います。
他の異性の影に常に怯えることになる
カラオケ嬢は、男性に対する距離感にズレがあります。元々ベトナム人は日本人よりも身体的な距離感が少し近いのですが、カラオケ嬢となるとなお一層近くなります。
それが自分の見ていないところで日常的に起こっています。仕事とはいえ多くの男性と会い、口説かれているのが日常なのです。
男性側は、それが彼女の仕事なのだから、と考えます。ピュアな心ですね。ところが、現実的には他の異性の接近を感じるたびに心に警報が鳴ります。
自分の大好き女性が他の男に口説かれ、触られ、楽しそうに話をしているのですから当然です。
これは度々続きます。初めは耐えられるのですが、気持ちは弱いものです。こういった心の警報は非常に強いもので、信じたい気持ちをいつしか圧倒します。
これは苦痛です。そして、より強い猜疑心の暗い影が灯ります。
値踏みされている感の屈辱
ベトナムのカラオケ嬢は常に多くの男性と会うため、当然ながら男性を無意識的にランク付けしています。
自分と接している時間、性的関係、こういったものが全て金銭的にいくらくらいになるのか? を正確に分析してしまいます。
彼女達はこれを巧みにかくしているつもりですが、こういった無意識的な感覚は隠しきれないものです。
そして、金銭的な不足が生じると不満が出るのです。その時になって男性側は、自分が金銭的な価値で値踏みされていることに気づきます。
少しエグい言い方をすれば、一般の女性でも男性でもそういうった感覚はあります。しかし、カラオケ嬢の場合は露骨すぎるのです。
また、一般の男女は、一緒にいること自体が対等な相互関係だと感じています。なんでも金銭的に置き換えたりはしません。
その結果、男性は自分を低く評価された屈辱を覚えたり、時には高く評価され嬉しくなったりと振り回されることになります。
拭えない猜疑心との戦い
相手がそれとなく自分を値踏みしていることがわかり、多くの男性と接していると言うことが現実的な感覚を伴ってくると終わりのない猜疑心との戦いが始まります。
これは、カラオケ嬢は男性との関係性が上手なことも原因となって、自分が騙されているんじゃないのかと言う気持ちにもなります。
こうなった頃には、心臓がおかしな鼓動をはじめます。これは、不眠を招いたり、日常生活を著しく乱したりするきっかけとなります。
多くの男性は、それを愛情と錯覚してし、立ち向かうべき課題と思うことでますます深みにはまってしまいます。
この頃になると、冷静になるのはもはや不可能です。
満たされない心と愛の渇望
このような状況に陥ってしまう事は、誰に問題があるわけではありません。ベトナムでカラオケ嬢を本気で好きになれば、必然的に発生する問題なのです。
結果的に、男性側は常に満たされない心に囚われます。そして、愛を渇望することになります。
「たかさん」は男性ですから、男性としての本音で言えば、カラオケ嬢側がもう少し男性の心を読み取って自分自身の愛情をより具体的な方法で表現するべきだと思います。
しかし、そのようなケースはほとんど見たことがありません。
彼女たちは、悲しいほどに自己愛が強いのです。ゆえに、与えるものは常に少なく、男性は満たされない日々を送ります。
こういった結果、容易に関係性を破綻させ、多くのカラオケ嬢もまた真実の愛にたどり着く事は滅多にありません。
何を失い何を得るのか?
このような体験をすると、もう二度と御免だと思う人は多いでしょう。しかし、それはそれで良い人生の経験になったと言えます。しのごの言わず、受け入れ、以後同じ過ちを繰り返さなければよいでしょう。
また、こうした過剰な感情体験を好む人も一定数います。そういった人たちは、幾度と無く同じ体験を繰り返しながら精神面での成長を遂げます。
そういった男性たちは、ある意味で彼女たちの良き理解者なのですが、残念ながら良い関係を築くよりは搾取する側に回ってしまうケースが多いように思います。
例えば、結婚をちらつかせて関係を作り、子供を作るだけ作って逃げ出すような男性もいます。これはこれで、やはりこの界隈では自然なことです。
しかし、こうした男性たちもまた、長い目で見れば破滅の道を歩むことが多いように思います。例えば、自分の娘に対して過剰な心配をする、妻を信じられない。遊び癖が抜けず離婚となる、といったケースです。
どちらにしろ、男女は惹かれ合い、愛し合い、騙し合い、いつしか終わりをむかえることに変わりはありません。
ただ、それが過剰で回転が速いのがこの界隈であるということは間違いありません。